船は新造船の場合、オーナーである発注者、仲介業者、造船所、設計者、回航業者など多数の業者が関わり
建造され発注者の元へ届けられます。
一生に何隻もの船を建造したり、所有されるオーナーもいますがそれは例外と言えます。
多くのオーナーにとって船は次々に乗り換えたり造ったり出来る物ではありません。
一隻一隻がオーナーにとっては大きな思いと多額の費用をつぎ込んだものです。
船一隻の建造には様々な技術が盛り込まれそれぞれの専門家が分野分野にその技術を発揮します。
ビルの建設とよく似ていますが違う点は最終的には海に浮かび荒海を動き回るということです。
各専門分野のプロフェッショナル達が力を合わせ船は完成し進水します。
ボニータが関わるのは進水以降の試運転の段階からのことになります。
チームで言うなら駅伝のようなものですが船の建造そのものとは最も関わりの薄いボニータが
最終の仕上げともいうべきお届けの航海、つまり回航をこなすわけです。
回航と言ってもただ届ければよいというものではありません。
試運転では船の癖や能力を読み取りその船がどのくらい荒れた海に堪えられ安全に航行できるかを考えます。
また回航出航後は気象に気を配り荒れるならいつごろどの海域でどれくらいの期間荒れるのか、
避難するにはどの港が最も安全で良いのかといったことが重要になります。
時には台風や荒天のため一週間以上も同じ港から動けなくなったこともあります。
また燃料タンクにたまったスラッジがフィルターに詰まり航行中にエンジンが停止し漂流したことや、
機関室の電気系統から火が出て危うく火災寸前に気配に気付いたためメインスイッチを切り難をのがれました。
こういった場合にもただちに回航の発注元や責任者へ連絡をとり同時に原因を追究します。
また寄港地での夜間は潮の干満や天候の急変など警戒すべきことがいくつかあります。
預かった船に横になって休めるところがあればボニータは船から離れず船の安全を守ります。
回航は船の一生の中でも最もリスクの高い航海なのです。
オーナーをはじめ関係者は何事もなく回航を終了することを望んでいますが時にはこういったことも回航には付き物なのです。
何事も起きず船を届けることが回航の理想です。
何かが起きればただちに冷静かつ的確な判断で問題を解決し、造船所をはじめ船に関わるすべての人の期待と
オーナーの夢を載せて目的地までともに航海するのが回航なのです。
1974年 | 日本大学農獣医学部卒業 |
1976年 | 翔洋丸漁業創業 |
1980年 | 漁船回航 大分県姫島~沖縄県佐敷港 |
1982年 | 漁船回航 福岡県大牟田市池田造船~宮崎港、朝日ジャーナル掲載 |
1983年 | 漁船回航 大分県ヤンマー造船~宮崎港、長崎県鹿町町~宮崎港 (以降、漁業の傍ら回航をこなす) |
1990年 | 船舶回航(有)ボニータ設立、船舶回航業を経営。以降、ヨット、ボート、漁船を専門に回航 世界アマチュアサーフィン選手権のNHKBSカメラ班取材艇船長 ※月刊誌「月刊ターゲット」掲載 |
1993年 | 関西テレビの番組「人間マンダラ」の特別企画“沖縄からの風”においてジェットスキーによる沖縄-神戸間の航海を計画作成、クルーザー2隻ジェットスキー2隻の船団の監督及び船長をつとめる。 鹿児島県外洋帆走協会主催「三島カップヨットレース」においてクルーザークラス優勝(スキッパー) トラジオンスイミングクラブによる「種子島より黒潮24時間遠泳」の伴走船船長をつとめる。 (台風の為、記録達成ならず) |
1995年 | 台湾高雄より70フィート65トンのクルーザーを西宮に回航(税関、入管、防疫事務処理代行) |
1996年 | ※オーシャンライフ7月号「パーソンズメッセージ」に掲載。 全長25m4本マストの木造、打瀬漁船を熊本県水俣港より千葉県船橋港に回航、打瀬船「日月丸」船長をつとめる。 「日月丸」は水俣公害被害40周年記念イベントで展示、その後解体。 ※朝日新聞コラム「人間スケッチ」宮崎日日新聞「この人」に掲載 年間多数の漁船、モータークルーザー、ヨットを回航。 |
1997年 | ヨットで横浜からハワイ・オアフ回航 ・元あおき浜漁協理事 同青壮年部長 ・元宮崎市水産振興対策協議会委員 ・元宮崎Jrヨットクラブ委員理事 |
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